昭和44年9月18日 月次祭
(途中から)もうここんところが。それであんまり痛いですから、神様にお神酒を頂いてからお願いさせて頂いておりました。そしたらね、ここがその急にこう、ほじり痒うなってきましてね、だからほじり痒いくらいですからここにあたっても気持ちが悪いくらいです。それで、「末永さんちょっと来てくれんの」ち言うてから、「はさみば持って来てくれ」というて小さいはさみでここをこう押さえなきゃはさみが小さいから摘み取ることが出来ませんのですけれどもね、それがそのちゃんとこう見たら私はそげん時にはこう見きらん。こうしてからですね、けれども、見とってもです、気持ちは良い。あたってもらってほじり痒いものですから。ほんの付け根のところからこうはさみを押さえつけて切って頂いたですから、もうそれ以来ひっかかりもせずに痛みもせん。そうしましたらもうすぐそのほじり痒いのが治ってしもうた。本当に私はその思いますのにねやっぱり信心させて頂いておってもそういう痛い思いをするようなことがありますけれども、その痛いことでもやはりあの神様のご守護の中にあるという事。お願いをさせて頂けばです、それがね、その、あまり苦にならないように、苦痛にならないようにこうやって、途端にほじりかゆくなるという不思議な現象ですよね。これはその事だけではありません。もう一時が万事にそのようなおかげを私が頂いておるわけです。私だけそういう風に不思議なおかげが頂けておるだろうか。
今日もいつものことながら私午前中でしたか、御初穂の整理を月次祭の時には二回三回に渡って御初穂の整理をするのです。大変ですから。先日から、今月はいつも十日がここの支払日になっておりますが、もうここにはお金が十九万なんぼ位しかもうぎりぎりないです、帳尻がその位しかないちいうようにそのお金がなくなってしまった、と言うくらいに先月、先月じゃない今月は支払いが多いかったのです。ところがこの18日の今日は向こうが集金に来ます日でございますからどうしてもはやり五十万まではお金が要る。どんなに例えば計算をしましても毎日の売上というものはそんなにあるものじゃなか、決まっておるだいたい。売上というと可笑しい、水揚げとても言う(笑)。ね。いつものことですから神様どういう風にしてそれをおかげを下さるだろうかと思いよりましたら、ここ二、三日なってからずっとそのお供えがいつもの倍も三倍もあるのですよ。ね。それで今日繁雄さんと末永さんと御初穂整理をさせて頂きながら銀行がとりに来るから私、今日のも入れておかなきゃあれだろうと思うて、整理させて頂いて「銀行がきたら、これ銀行に入れてくれ」というてこうやって計算してからお金とこうやって見比べられて、繁雄さんが末永さんの顔と見比べてから、通帳と末永さんの顔を見比べてこんなにも間違いがないよというて話しておるのを見せて頂いてですね、神様はそんなにも間違いがない。ですから体の上にもやはり同じ事。ですからこれは私だけが専売特許じゃないわけですよね。誰でもおかげを受けられるわけです。ですからそれ皆さんはまあいうなら分担的にですかね、じゃない、あの、何ですかね、まあ部分的とでも申しましょうか、時々ですね、時々は神様のご都合の間違いなさに恐れ入るというておかげを喜んでおられます。
ね。まあ頂いたり頂かなかったりというようなことでございましょう。ですからそれがね、いつも体の上にもまたは金銭の上にも全てのことの上にそういうおかげが頂かれるから、ありがたいということになる。そういうありがたいおかげを頂かなければならん。それがそのどういうところからそんなに違ってくるかというとですね、神様のおかげは一様なんですけれども、それを受け取る心が違う。ね。神様はもう一様に誰の上にもおかげを下さっておるのですけれどもそれを受け取るいわば受け物が違う。ね。
ですから、例えばそうしたおかげを受けてもふがよかったというくらいにしか思えない人もある。おかげを受けておっても、ふがよかったとすらも気がつかない人もある。もうとっても小さいささやかなそれこそ、爪の、爪を取らせて頂くというようなことの上にまで神様のお働きが頂けれる神様。金銭の上には勿論、全ての事におかげの頂けれる神様。ね。それは神様のそういうおかげご守護の中にです、私共があるという思いがね、強いか強くないかあるか無いかという事で私は決まると思うのです。神様のおかげを頂かなければ本当に立ち行かないという思いですかね。
今日先ほど若先生がお風呂の中で話しておりました。内はどんなに考えても今度の御本部参拝に五百名はお参りがある。あってはよかち。ご信者さんの数から言うて。いうならばまあ、無理にお勧めでもすりゃ、合楽の場合は五百名くらいは、七百名だともう一列車借りきる事が出来るのです。この次のお参りには一つ七百名くらいは一汽車、一列車借りきってお参りが出来るようにおかげを頂かにゃ、問題は実力を頂かにゃいけんけれどもです、さあ、あんたも参りなさい、あんたも参りなさい、信心のない人たちにまで勧誘して回ってですね、その、進めまわったところで仕方がない。内は今度は二百名あまりでしょう。ね。誰もお参りしなさいと私は言わんです。それで言ってました。「当然お参りしなければいかんという顔ぶれが大分今度お参りがなか」ち言う。ね。私は思います。本当に信心をしておっても本当の信心のありがたさ、本当の神様のおかげを知らんからそういう事になる。当然合楽ではお参りを例えば薦められなくても参らなければおられん。嫌、今度は家族中でお礼参拝をさせて頂くぞと言わなければおられないくらいにまで分っておらなければならないはずの人達がお参りの申し込みの中に申し込みが無いち。私はまだ誰誰が参るという事を( ? )書いて出しちゃったけれどもそれはその、こうやって、見たこともない。誰が申し込んでおるか申し込んでいないか知らんけれども今日若先生がそんなことを言うておるのです。けれどもまあ、それが合楽教会の一つのゆとりじゃないだろうかと。ね。
私共は教会としてはそういうゆとりを持つという事は、薦めんでも二百くらいは参る。やっぱりこの辺では合楽が一番でしょう。最高お参りがあったところで百名くらいでしょうからね。それでも他所のやはり倍くらいはお参りしておるけれども、そういう他所が百名も出来ておる小さい教会でも百名でも出来ておるという割合にするなら、内はどんなに見積もったっちゃ五百くらい参らせにゃならんち言う。信心が分かっておるようで分っておらんち。ね。神様がありがたいち言うよるけどどこまでありがたいか分らん。ね。神様のおかげを頂いておるというけれども、どういうおかげが受けられるという事はまだ知らんでおる。まだまだこれは信心の稽古が本気でなされなければならんなと私は思わせて頂いたのですけれども、その信心の稽古をさせて頂くという事でも私共が神様のおかげを頂かなければ立ち行かないと。神様のお守りを受けておると言うことが分れば分るほど、例えば微に入り細に渡ってのおかげを受けられるのが御道の信心なんですよ。ね。ですからどういうような形においてかです、本当にこの神様は間違いがないなあと体験させて頂く日々でありたいというところに朝参りといったような修行が御道の信心ではなされるわけでございます。ね。
今朝の御理解の中にも、「今月今日で一心に頼めい。おかげは和賀心にあり」と、これは御神訓の第一か条にございますよね。これは天地書附の後半のところと同じ。今月今日で一心に頼めい。おかげは和賀心にあり。ですからおかげは私共が頂きたいと思う。だから折角頂きたいなら切実に泣きたいほどに頂きたいという願いを持たなければいけん。ね。神様も切実におかげを頂いてほしいと願っておられるのですから、その願いが一致しなければいけん。神様の願いと私共の願いが。ただ、時々参ってお願しとけばよかろうというのじゃなくてですね。
(袴の紐がはぐれて・・・笑)
和賀心におかげがあると仰るからその和賀心、おかげの頂けれる和賀心という心はどうい心であろうか、勿論、和らぐ喜ぶ心と書いてある。だからその和らぎ喜ぶ心というのはどういう心を持って和賀心というのであろうかと。言うように追求していかなければならん。その内容について今朝の御理解を頂きましたですね。和賀心と。おかげは和賀心にあると、どういうようにおかげが降るようにあっておっても和賀心というものをとりはずしますとおかげが受けられませんのが御道の信心。ですからその和賀心を私は目指さなければいけん。和賀心を頂くための精進がなされなければいけない。もう本当にそこんところをやっぱり、心がけておかなければいけません。今日私、夕食の時にちょっとお客さんがありましたから、おビールを一、二杯頂いた。( ? )すぐ酔うようになった。それはもう、八時のお祭りの時間というころになってからその酔いが少し出てきた。さあ酔いが出てきたら大変きつい。霊神様の前に出てから本当にお詫びばかりをさせて頂いてから、まだ、その酒気を帯びてからお祭りを仕えるという事はもうはなはだ神様に対して相済まんことであったけれども、あれを一杯控えておればなんでもなかった。ビールくらいでしたから。けれども、そこんところがやっぱり一杯卑しいもんですから、頂きすぎておったのが、今日のまあ不覚なことであったなとまあ自分で思うのでございますけれども、そういう、結局心がけがね、なされなければいけません。信心をさせて頂くならば。ね。そこで「朝の清々しさ昼のいそがし、夜の有り難さ」というようなそういう表現を今朝の御理解に頂きますとね、朝参りをさせて頂くという事はね、確かに朝やっぱ4時の、4時ごろから皆さんが出て見えて五時の御祈念を頂かれるわけでしょうけれどもです、それは気分がいいですね。やっぱり朝の雰囲気、朝の清々しいなかに神様に向こうてくるというのだから気持ちがいい。けれどもそれはね、例えばあのお神様参りではなくても、朝、いつもよりかは一時間か二時間はよして、近所をまあ、その散歩してまわるなら気分がいい。けれどそれだけではつまらん。ね。やはり和賀心を頂かせて頂く為の朝参りでなからなければいけん。なんとはなしに朝の清々しい気分で御用をさせてもらう。そして、昼の様々な忙しいその御用に取り組ませて頂く。そこからね、例えば朝顔の花のようにいつか、しぼんでしまう。朝の清々しさなくなっている。私は先日四時の昼の四時の御祈念をさせてもらう。まあこれはここの修行生の方達だけが後で拝んでおるくらい。まあ三十分かかります。丁度。もちろん私の御祈念ですからもう黙ってご神前に額ずいておるだけでございますけれども。
●その時に、頂きますのが「昼顔」というのがありますでしょう、朝顔とか昼顔とか言うあの、堤防なんかによくこうやっぱり朝顔のように小さい花がありますがね、昼顔の花がいっぱいさいて折るところを頂いた。朝に朝顔のようなすがすがしいそれこそあの、朝顔の花に露をもったような清々しさを持って朝を迎えさせてもろうて、そして昼の忙しさの中、忙しい忙しいという中にあってもやはり、信心の喜びという花咲いておかなければならない。それが夕方の例えば夕顔の花のようにですね、いわば心の中に喜び、とにかく夜のありがたさと仰るのですから今日もおかげを頂きました。まあ、一日を振りかえってみますとあれもお粗末でした、これもご無礼でしたとお詫びをすること、お礼を申し上げることの多い事多いこと。そのお礼やらお詫びをさせて頂いておりますと神様が受けてくださった、神様が許してくださったとじったものが、通うてくる。そこからありがたいそれこそ、夕顔の花にも似たような怪しいまでの心の中に喜びが頂けれるという今朝の御理解でした。その喜びというものがです、明日のやはり清々しい目覚ましの原動力になるのだと。
ね。和賀心の内容というものはそういうものでなからなければならん。信心とは日に日に生きるが信心なり。信心は日に日に生きるが信心という事はね、日に日に生きるということは日に日に生まれるという事です。ですから本当いうたら日に日にだから、過去というものは死んでいくほどしのもの。ね。でなからなければ朝の本当は信心で言う清々しさというものは頂けない。ただ、朝早起きをして気持ちがよいというのなら、お参りをしなくっても朝参りをさせて頂いて散歩をしてでもあー気分が爽やかになったという事は頂かれる。けれども、これは和賀心には繋がらない。そういう和賀心を目指しての信心。私共の信心が何か知らん月次祭になったらお参りせにゃ、度々参りよるけん参りゃな気持ちが悪いからお参りをするというのではなくてです、今日あそこに青年の福岡から参ってくる方がありますが、「先生今日この頃月次祭にお参りをする日常の朝、朝の御祈念にお参りをしてくる。家族中で。月次祭に私1人でお参りをしてくる。それがこの頃楽しくなりました」といってお届をしております。何時の間にそういう風に信心が楽しくなって来ただろうかと思う。そういう信心がね、私は斬新なというかね、その、清々しい信心だと思うのです。信心が身についていきよる証拠です。ね。今日朝の御祈念の後に田主丸の永瀬さんが永瀬さんの奥さんがお届けをしております。「もう先生もう本当に私の信心の頂く前、それから頂くようになってからの此の方の事を思いますと。それも、最近お家が立派に改造が出来まして見事にその大体出来上がったのです。そのお礼を申されながらです、本当に勿体無いこういうようなおかげを頂いてという事である。そういうおかげがですね、いうならば信心を頂かなかったら以前の私はもう非常にそのもう、毎日毎日イライライライラもやもやしてそれこそ子供を叩いたり、言うこと聞かんと、逃げ出すともう、追いかけてきてからでん、クラせにゃ出来んくらいにモヤモヤする自分であったっち」言う。それが主人と二人で信心を頂かせてもらうようにならせて頂いたらです、最近それがもう全然なくなってしまった。何時の間にかなくなってしまった。そして、自分の心は有り難いものに変わっていきよる。いつどういう風にして変わっていきよるか分からん。朝参りの信心。ね。いわゆる和賀心を求めての信心である。この頃は私が助かったから第一主人が助かる。子供が楽になる、いや主人の兄弟までが私のいう事をよく聞いてくれる。
ね。お参りをするけんちょっと送ってくれんのちいうと今までは信心のことちいうたらそのむきになりよったのが、なら早く送ってやろうと言うて送ってまでくれるようにまで段々ならせて頂いた。とにかく自分が変わっていくという事の有り難さが毎日毎日の朝参りになっておる。だから限りがない。これからどのようなおかげが展開してくるか分からんというようなですね、人間の不幸せな生活から幸せな生活へ展開している。それは金でもなからなければ物でもない。なんというても自分の心。いわゆる和賀心である。ね。ただ、和賀心というのはどういうようなものかと言うとです、ね、追求してみますと、和らぎ喜ぶ心にあり。
●その後に、森部の高山さんが御届けをしておられる。今朝方から御夢を、御心眼を頂かれてある。それは高山利光、高山ともえと二つ並べて字が書いてある。そしたら親先生が高山さんそげな信心じゃいかんよち。毎日お参りをさせて頂いて、高山ともえ、高山利光というて御届けをしよる。それで、毎日拝みよる。もう、それで、自分は( ? )それでよかごと思うておる。けどそういう信心じゃいけないよと言われて次にまた頂いた。それが、はっきり字で頂いたのがね、田んぼの田という字を頂かれた。それから英雄の英という字を頂いた。田んぼの田に、田、田中の田、すと英雄の英という字を。そしたらその下にカタカナでずっと電報の文のようにですね、電文のようにカタカナで一杯書いてありますけれども、それは読み取ることが出来なかったが、どういうような意味の事でしょうかとこういわれる。これはもう本当にご理解というのはもうやはり(はんじもん?)のごたるです。ね。ですからそれをやっぱり判読しなければいけません。電報が判読致しますでしょう。ね。それを読み違えると大変な事になるわけですよね。息子が親父のところにね、「金をくれ、頼む」ち言うてから電報打ったげな。ところが親父がそれを「金をくれ、頼む」ち書いてあったつを「金をくれた」までいっぺんに読んでしまうておるわけです。だから「金をくれた、のむ」ち書いてあるけんで、「あんまり飲むな体の為に悪い」(笑)というて、判読しそこのうたわけ。ね。ですからご理解でもやっぱり頂きそこなうとです、そういうことになりかねないわけですからね、やっぱ、その心してやはり頂かなければいけないと思う。ね。そこで、その高山さんが頂かれたのをカタカナの丁度電報の用紙の裏にカタカナで一杯書いてあった。けれどもそれを読み取ることが出来なかったという事は判読することが出来なかったという事である。ね。高山利光、高山ともえ毎日お参りをして夫婦並べて仲良う信心をさせて頂いておる御届けを毎日させて頂いておりますというだけではいけんのだと。お月並祭にはしゃっち御礼参りをしよりますというだけじゃいけんと。その内容を問われたわけなんです。そして「例えば」というてご理解を下さった。田と英という字は例えという事。例えばこの電報用紙のようなもので、読み損なうとね、あんまり飲むなち言うような事言うてならんわけです。
ね。ですからここんところを私頂き損なわんようにしなければいけない。ね。そこでなら、どういうわけなら、田と英とこういうて、例えという字を下さったかというとです、田という事はおかげの受け場受け物という事である。田。ね。田んぼを持っておるというだけではいかん。それに籾なら籾を蒔いてはよ稲が出来るようにですよ、大根の種を蒔けば大根が出来るようにです、田んぼを持っておるという、田という事は受け物という事である。受け物を持っておる。ね。英という事は(えいだん?)の英なん。ね。元気な心で信心せよと。ね。大阪の泉尾教会の先生が必ずお話の中に使われる言葉の中に、「勇む」と。「勇め」と心が勇まなければいかん。ね。心が勇んで参りますと、眠い時に眠くない。寒い時に寒くない。暑い時には暑さをさほどに感じない。心が勇んで参りますという事をです、いわばはっとするような時に心がしゃんとするようにですね、そういう勇むという事が必要である。信心にはいわゆる生き生きとしたものが必要である。ね。
そういう例えば何とか様々に工夫をさせて頂いてです、ご理解を頂いて、ただご理解を頂いただけではなく、それを判読して、私がどう頂かなければならないかと、夫婦の上のことでもそういうように只、お参りをしております、もう毎日御届けをしよりますということだけではいけない。それが何とか変わっていかなければいけない、工夫をしなければいけない。ね。例えばがいる。受け物を持っておるからもうひとつ元気の心を頂けれるような何とか工夫を頂かなければならない。ね。その元気な心が出る所からです難儀を難儀と感じんですむ、生き生きとして勇ましい、例えばあの、日章旗、日の丸の旗に風がこうはたはたとこうはためいておるというのが勇ましいというわけです。いかに白地に赤くその日の丸染めて、というてもです、あれがデレっとさげとったんじゃ勢いも何もありゃしません。金光様のご信心はどんなにありがたいというても、それが生きた働きとなって日日の生活の中に現されなければいけない。それが、毎日拝み寄ります、毎日こうやって御届けをしよりますというだけではいけない。例えばといわば、かな文字でみやすうわかりやすう、毎日朝の御祈念の後のご理解が頂けておる。毎日毎日が今日はどげなご理解を頂くじゃろうかと思うて実は私自身が胸を躍らせて朝のご理解を頂いておるとです。しかもみやすく噛んでふくめるように下さるのです。それを頂いてまた、私共がそれを判読して、生活の上に表していくという内容が和賀心の中にあるのです。和賀心とはそういう教えを生き生きと行じておるそこにです、例えていうならば今までの夫婦ではない夫婦が誕生するのです。今までの親子ではない親子が生まれてくるのです。それが日に日に生きるが信心です。
ね。昨日も今日も同じではない。生き生きとしてお互いの信心が進展していく。ね。そういう例えばおかげの中にです、私はどういう些細なことでもおかげとして、おかげを頂けれるところの信心。
先ほど原さんが夫婦でお話をなさっておられましたですね。もう、今度山口に旅行夫婦でされたお話をなさっておられました。それこそ、見るもの聞くものその朝のご理解がとにかく、「目に見えておるという事だけに一つ焦点において有り難いという事を頂こうじゃないか」と言うところ、そこから原さんの信心の工夫がなされた。時々目をつぶられる。時々片目で見られる。ね。(?)見えてくる見えてくるもう全てのものが見えてくる。しかもその見えるものがです、それこそ、あの、天然記念物と言われる鍾乳洞ですかね、山口のあそこを見られてから、それこそ目をみはるようなその物見てきては今までかつて感じたことのなかったような喜びを感じられた。もしこれが目が見えなかったらどうだろうかと、「ちょいとお前触って見れこれが鍾乳洞ぞ」お父さんがやってくれる。「ほうこれが鍾乳洞ですかちいうてから言われる。(笑)それがこれに見えておるという事が私期せずしてその原さんがその日行じられた事と私もやっぱりその日はもう、ここで暇のある時目をつぶっとった。そしてもう、目を空けなんときでも両方は一遍にあけん片一方からこうちっとあける。もうそれがそういうですね、笑いよるけれども、信心はそういう工夫が大事なのです。ね。ところが目が見えておる事が有り難い、ね、その朝のご理解にあのへレンケラーという人は目の見えない耳も聞こえない。ね。口も聞けないというそういう三重苦の人です。ですからね、もし谷間にさえずっておる鳥の声がこの耳で聞こえたら、ね、谷のせせらぎの音があるであろうその谷のせせらぎの音をこの耳で聞かせて頂いたら今この命を召されてもよいというほどしに思うたち。それが聞こえたら。ね。見えないという事は見えるという事だけでも聞こえないという事が聞こえるという事だけでもそのように有り難いものを私共は頂いておるのだけれども、それを当たり前のように思うて、特別した例えばなら、おかげを頂いてもおかげと思いきっておらんくらいなことでです、次の本当のおかげの展開というものがなされるはずがない。ですから、やはり焦点は小さい所においてですね、目が見えるという事だけの上においてもです、有り難いものが分かってくるとですね、目が見えておるという事が有り難い事が分かってくるとですね、手が動きよることが有り難くなってくるのです。聞こえてくることが有り難くなってくるのです。これは不思議です。ですから、もうあまりにも漠然として神様のお生かしのおかげを頂いておるといくら分かっとったっちゃ喜びも湧かんならどうこんいかんでしょう。だからそれを分かるために時々は目くらにもなってみらないかないかん、ちんばにもなってみてです、はあ、聞こえてきた、はあ、見えてきたというその喜びが他の喜びまでもずっと感じられるような、工夫がいるのです。
毎朝、毎日のご理解を頂かせてもろうてです、毎日参りよります、お初穂こうして奉りよりますというだけの信心がただ続いただけではいけない。ね。その内容がです、和賀心に向かって進んでおるかと言うところにです、いわばかな文字みやすう下さるそのご理解でもやはり判読しなければ分からないことは沢山ある。それを自分の物に頂いて、頂き違いないように頂いて、それが生活の上に表されるところにですそれこそ、有り難うて有り難うてと私が今朝から使っておるそれこそ、本当に私はこれはもう実感なんですけれどもね、もう、どう有り難さを表現してよいか分からんです。それこそ怪しいまでの有り難さです。何かに憑かれておるではなかろうと思うくらいの有り難さなんです。そういう有り難さを持って、一日を終わらせて頂く。今日波多野さんが言っておられました。昨日は、未亡人会があった。それは素晴らしい会で今日は良かったと思うた。ところが一番最後に偉い人が挨拶をなさった時にです、いわば心にもない事を表現しておられる事に、皆が嫌な気になってあの話を聞いただけで今日は一日が無駄になったと言うて帰ったといわれておる。
ね。ですからどんなに素晴らしいです、例えばお話を頂いてもですその最後のところが大事。お芝居でもラストシーンというかね、幕切れがよかればはあー今日のお芝居は良かったとそのお芝居に酔うような思いです。ここの例えば信心共励の会話なんかそうですね。始めの間はさほどでもなにもごたるけれども、段々段々時間が経ってしまうごとなるとです、ラストシーンというごとなってくると、もう( ? )ないごと有り難くなってくるでしょう。ね。一日を締めくくるという事も同じ事。どんなに朝有り難かったというても昼おかげを蒙ったというても、休ませて頂くときにぶつぶつ言うたりですよね、もやもやしたりその、感情的なことを言い合いなんかしてから休むような事でね、おかげを受けられるはずがない。一日が台無しになる。ね。その最後の所をです一つ大事にさせて頂かなならん。そういう内容が和賀心の中にではどうでも必要。だから和賀心を求めての信心。和らぎ喜ぶ心と、に、おかげはあると仰るけれども、そのおかげはありというおかげとはどういうものかと。和賀心の内容にどういうものがあるかなければならんかと、言ったようなことを銘々の信心で銘々でですそこんところを頂かせてもろうておかげを蒙っていかなければならんと思うのですよね。
どうぞ、御本部参拝も近づきました。また様々な行事がまだ今度、23日は御霊様のお祭りがございますですね。一時から。これには一つお互いの遺族の方は勿論ですけれどもここに御祭りをしていない方でも御霊様をここにみんなお招きして、御霊様との交流をはかりたいと思う。ですからどうぞ、その日はお繰り合わせを頂いてお参りを頂きますようにお願いもうします。
それから、二十九日の生誕祭は今度は受け持ちがね、演芸の受け持ちが善導寺地区だそうです。ほれで今日あそこへ、何か大変良い芸能人の方が今日決定したそうですから、やといれが。ポスターが出ます。それでどうぞこれはお年よりだけの生誕祭というお祭りですから、お互い皆で頂かなければならないお祭りです。そして皆がその日は教祖様が喜んで下さることの為に年寄りを大事にしようじゃないかというのが、あの、演劇になったりお弁当を作ってお年よりにお分けしたりすることになるのでございますから、そういうところも含めてどうぞおかげを頂かれますようにお願い申します。
どうぞ